理解と共感

前回の記事 偏見と差別意識 - nakahuyu’s blog

から繋がっているようないないような話。

 

世の中にある様々な苦しみ

差別やハラスメントにつらい思いをしている人達

日常の中で苦痛や生活の根幹に関わる不便を強いられている人達

それらの人達の思いを理解し、共感しているかと言われると

私はきっと全然出来ていません。

「もし私が同じ立場だったら」と考えようとしても、やはり完全に共感することは無理なのだと思っています。

 

しかし私は違う立場において「苦しい」「つらい」という気持ちを知っています。

 

例えば私は"左利き"であるということで幾度も不快な思いをしてきました。

初めて鉛筆を手にして、両親や保育園の先生のがっかりした顔を見た3,4歳頃の記憶から

見ず知らずのご年配の方に「あんた、ぎっちょんちょんなんやな-!」*1と言われたつい先月まで

思い返すと眠れなくなるほど嫌な思いをしてきました。

しかし、その体験ひとつひとつを人にお話しても、この気持ちを分かってはもらえないだろうな、と考えています。

例えそれが同じ左利きの人であっても

「そんなに根に持たなくても」とか「昔はもっと厳しかった」と言われてしまうかもしれません。

 

それは別にいいんです。

それぞれ違う人間である以上、同じ体験をして同じ思いをするとは限らないんですから。

ただ、この長年にわたる不快な気持ちを思い起こしたとき

「あのような気持ちを他の人にはして欲しくない」と私は思うのです。

左利きという理由でなくても、例えば性別、性的志向、出身、職業、病気やハンディキャップ、その他様々な理由で、あの時の私のような気持ちになった人がいるのだとしたら

「それは駄目だ!あんな思いをする人がいなくなるようにしなければ!!」と思うのです。

 

逆もあります。

私は大好きな人と過ごす楽しさを知っています。

大好きなものを楽しむ喜び、先の予定をワクワクしながら待つ嬉しさを知っています。

特に何をするでなくてもただ穏やかに過ごせることの幸せを知っています。

もし、誰に害為すものでもないのにこれらの喜びが奪われている人達がいるなら

それは何と不幸なことであるか

そんな状態は改められるべきだ、ということは私にも理解できます。

 

私は誰の気持ちも完全には理解・共感できません。

私の気持ちだって、他の誰にも完全に理解・共感できないでしょう。

お互いに近い体験をしたとしても、きっと完全な理解・共感は無理です。

だって私達はひとりひとり違うから。

 

でも、体験や対象は異なっても「悲しい」「苦しい」という気持ちや「嬉しい」「幸せ」という気持ちを知らないという人はそういないのではないかと思います。

「私はその体験でつらくは感じないけれど、違う体験で凄くつらい思いをしたよ」

「私はあなたと同じものを好きにはならないけど、とても大好きで考えるだけで幸せになれるものがあるよ」

理解と共感ってこういうことではないのかなと考えるのです。

 

同じ立場に立たなくてもいい。同じように感じようとしなくてもいい。

私とあなたは違うから、「違うんだ」と分かってくれればいい。

「違う」からこそ、「違う」もの・ことについて「同じ」ように感じることもある。

「理解できない、共感できない」が「理解する・共感する」の基本なのではないかな。

つらつらとそんなことを考えています。

 

*1:ぎっちょ=左利きを示す方言です。侮蔑の言葉とされ現在ではあまり使われません。放送禁止用語と見た記憶もあるのですが確実ではないので断言は控えます