映画『羊と鋼の森』感想

注:完全ネタバレ&独自解釈満載です。ご了承ください。

 

 

映画館で予告を見たときからずっと気になっていた『羊と鋼の森

hitsuji-hagane-movie.com

公開初週は残念ながら夏風邪で倒れてしまい観に行くのがずいぶん遅くなってしまいました。

他にも観た映画どれも面白かったのですが、この作品については特に私の中でずっと余韻が広がっていてツイッターでは感想が書ききれない気がしたので、衝動のままに書いてみようと思います。

 

 

この作品は1人の青年が調律という仕事に出会い、調律師として職場の先輩やお客様から様々なことを学び、ときに挫折し苦悩しながらも真摯にピアノと向き合い、成長していく物語です。と、書いてしまうととても簡単なのですが。

ある職業を描いた作品、若者の成長を描いた作品であると同時に

私は「生命の営み」「人が生まれる瞬間」が描かれている作品であるとも感じました。

 

冒頭、夢も希望もなく何となく生きていた主人公の外村直樹くんは

調律師の板取さんが体育館に響かせたピアノの音に惹きつけられます。

ピアノから響く最初の音は「ラ」。調律の基準となる音です。

この「ラ」という音は赤ちゃんの産声と同じ音なのだそうです。

私は学生時代にそのことを聞いて「ほんとかな」と思っていたのですが、繰り返し響く「ラ」の音と、どんどんピアノに惹かれていく主人公の姿に、ふと

「あ、これは彼の産声なのかもしれない。今、彼は新たな生き方を進む人として生まれているのかもしれない」と思ったのです。

 

作中で「生まれた」と感じたのは外村くんひとりではありません。

外村くんが初めて1人で調律を担当した家の青年。

彼もまた、大事なものを失い、閉ざしていた心をピアノの音で取り戻します。

調律が終わり、最初に鍵盤を叩いて響いた音(これも「ラ」だったと思うのですが)*1にフッと変わった表情に

「あ、今、彼も生まれた」と思いました。

ピアノは彼にとって亡くしたものを思い出す苦痛の種であったはずです。

調律も、もう一度弾くためではなく手放すために依頼したのかもしれません。

けれど、彼は大切な家族の思い出とピアノと共に生きていくことを選んだ。

その人生を歩む彼が、あの時「生まれた」んだと感じたのです。

 

そして佐倉姉妹。

彼女たちはその身に起こってしまった大きな苦難に苦悩した末、外村くんの調律したピアノをきっかけにそれぞれ次の一歩を踏み出そうとします。

その時に最初に響くのも「ラ」。始まりの音。産声です。

はじめ、和音ちゃんが昏い水の底に沈む姿はまるで魂が水葬されているようだと感じました。

しかしそこから光の方へと手を伸ばす様に、この水はもしかしたら彼女が生まれる準備をするための羊水なのかもしれない、とも思いました。

そして和音ちゃんは言います。「ピアノを始めることにした」と。

「続ける」でも「再開する」でもなく、「始める」

新たな目標を見つけた和音ちゃん、そして由仁ちゃん。

2人もあの時、きっと新たに生まれたのだと思うのです。

 

「生まれる」こと「生きる」ことというものを思いながら映画を観ていると、生命を象徴するものに溢れた作品であることに気付きます。

ピアノそのものに命はありませんが、その中には羊の毛や木材、多くの命から得た部品が使われています。

ピアノの音を聴いて外村くんは森の風景を心に思い浮かべます。

森は多くの命が生まれ、死んで、また生まれて成長していくことで存在するものです。

彼はピアノの音の中に生命の源を見たのかもしれません。

 

作中では移り変わる四季の風景が美しく映し出されます。

春の桜、夏の青葉、秋のススキ、冬の雪景色

それは時間の経過を表すものでもありますが、季節による植物の変化もまた生命の営みのひとつです。

 

そして、外村くんは人の死を作中で経験します。

亡骸は森を抜け、自然にそのままの姿で返されることを想像させる姿で描かれます。

死は生の反対にありながら、生と地続きにあるものです。

その死を通して、外村くんは今まで気付かなかった気付けなかったことを知ります。

それもまた、1つの人生が生まれた瞬間だったのかもしれません。

 

外村くんの先輩調律師達にも人生の中で苦しんだ時期や夢を諦めた時があって、そのたびにきっと彼らの「ラ」に出会って、今の彼らが「生まれた」んじゃないかと思います。

きっと私達の周りにも、外村くん達が「生まれる」きっかけになった「ラ」の音のような産声が溢れているのだと思います。

それは絵や写真かもしれないし、詩や小説かもしれない。数式や化学式かもしれない。アニメや漫画だったりもするでしょう。

その産声に気付くたび、実は私達も、何度も何度も生まれているのではないでしょうか。

そうやって何度も何度も生まれて、人生は続いていくのかもしれません。

 

この作品を思い起こすと、私の頭の中には冒頭の体育館での「ラ」の音が響きます。

冬の暗く寒々しい景色の中響く「ラ」はいつか誰かの産声になるのかもしれません。

 

 

かなり突飛な感想になってしまいましたが、とにかく美しい音、そして映像。

仕事に人に真摯に向き合う姿勢、兄弟姉妹の複雑なコンプレックスと感情。

台詞で多くを語らない脚本・演出。それに見事に応えるキャスト陣の演技。

見どころはたくさんあります。

とてもとても静かな作品ですが私は2時間半まったく飽きることなく観ることができました。

もし気になっている方がいらっしゃったら、是非とも劇場で音と映像の美しさを堪能して欲しい作品です。

公開からだいぶ経ってしまい回数が減ってきていると思いますが、是非。

 

 

 

 

*1:映画を見直したら違っていました・・・多分「ド」だったと思います。すいません。