私が見ているものは全て虚像なのかもしれない

最初に書いておきますがどうやっても考えが 纏まらなかったので纏めることは諦めました。

 

同じ人の同じ表情を見ても「楽しそう」と言う人もいれば「寂しそう」と言う人もいる。

同じ人の同じ行動を見ても「優しい」と言う人もいれば「最低だ」と言う人もいる。

何故なんだろうと考えます。

 

「大体テレビに出てる人なんてみんな虚像なんだから」と三宅健さんは言っていたけれど。

最近「そもそも私が本質をちゃんと見られている人なんているのだろうか」と思ったりもします。

テレビの中の人に限らず、家族友人仕事仲間その他どんな関係性の人であっても

「この人はこういう人」「この人はこういう考えを持っている」と断言できるほど、私はその人のことを分かっているのだろうかと。

 

私自身のことにしたって、普段何もかも取り繕っているわけではありませんが、だからと言って何もかもを見せているわけでもありません。

家族に見せる顔、友人に見せる顔、ご近所さんに見せる顔、多分全て違います。

職場でにこやかに話している裏で全く違うことを考えていたりもします。

ある意味では常に「この立場での私」という虚像を人に見せながら「この立場の○○さん」という虚像を見ているのではないかと考えたりするのです。

 

毎日のように顔を合わせている人にさえ自分の本質は見せていない

相手の本質も見られていない

なのに、ただメディアを通して見ているだけの人のことを、何故全て分かっているかのように語ってしまうのか。

「優しい人」に見えるのも「冷たい人」に見えるのも、自分がそう見ようとしているだけではないのか。

結局私が見ているのは「その人自身」ではなく「その人に対してこう見たいという私の願望」なのかもしれません。

 

しかし、「人が見ている自分」の中にこそ本当の自分があるという考えもあります。

どんなに「本当の私は違うの!誤解しないで」と主張しても結局は自分がそう見せているのだから、誤解ではなく"それ"こそが本質なのだと。

(例えば岡田さんがどんなに否定しても人からストイックだと評されるような)

 

結局どうなんだって話なんですが

もし誰かに対して「そんな人だと思わなかった」と考えてしまうようなことがあったとしたら「私の見ようとしていたものと違う部分があったんだなあ」と考えたり

「この人ってこういう人だよね」と語っている人に対して(それは違う)と思うことがあれば「私に見えている部分がこの人には見えていないのかも」と思えば

ちょっとは気が楽になるかなあ・・・なんて。

そして、私の見ているものが全て私の願望を含めた虚像なのだとしたら

できればあまりネガティブな見方はしないようにしたいなあ、とか。

 

全部自分の見方のせいだなんて思い込む必要はないんでしょうけど

色々なことに対して分かった振りもしたくないなあと思います。

 

 

ほーらやっぱり纏まらなかった(苦笑)