それぞれの"This Way" -映画『ザ・ファブル』雑感-
※そこそこざっくりネタバレありますのでご注意ください
いよいよ全国公開されました『ザ・ファブル』
大量の雑誌・番宣に嬉しい悲鳴を上げながらも、金・土と観賞してまいりました。
初回はどうしても粗筋や各キャラを把握するのに一生懸命になってしまうため、2回目以降の方が個人的にはより楽しめた気がします。
この映画のは主題歌は言わずと知れたレディー・ガガ様の大ヒット曲『Born This Way』
元々好きな曲ではあるので嬉しかったし素直に凄いなーとも思ったのですが、何故2011年発売のこの曲が今この作品の主題歌として選ばれたのか、何となく不思議ではありました。
私の中ではこの曲は海外ドラマ『Glee』のイメージが強くて
いくつか拝見した日本語訳と前述ドラマから
人は皆、生まれながらにパーフェクトなスーパースター
人種や生まれ育ち、セクシャリティ、外見、様々なコンプレックス、いいことも悪いことも含めて自身の経験してきたこと
それら全てひっくるめてあなたも私も最高の存在であって
ありのまま生きていけばいい、そのままで最高で完璧なの!
という感じの解釈をしています。
主題歌決定時のニュースの中にも
「『あなたの人生はそのままで素晴らしい』というメッセージを放つこの曲は全てのキャラクター達の人生を肯定してくれる内容で、映画の世界観とも合致する」
という旨の制作陣コメントがありましたが
では登場人物達の「そのままの人生」とは何なのか、なんてことを考えてみたりするわけです。
ファブル=佐藤アキラ(どちらにしても本名じゃありませんが)はずっと常人とは違う育ち方をしてきて、感覚も生き方もどう見ても"普通"とはほど遠い存在
でも彼には自然の美しさを感じる心があり、ひとつの命を大事にしようとする心もある。
色々普通ではない部分があってもとても魅力的なキャラクターだし「そのまま」の彼の良さがあるからこそ生まれた関係があるとも思います。
でも、今まで生きてきて培ってきた経験や感覚「そのまま」ではいるべきではないと判断されたからこそ彼は"普通"の環境になじむように命じられたわけで
アキラにとってのThis Wayって一体何なんだろう、なんて思います。
もちろん『 Born This Way』 の歌詞は人道に反する生き方や価値観を肯定しているわけではありませんが
殺し屋・ヤ○ザが大半という登場人物の中で
あの人やあの人の「ありのまま」には彼らを幸福に導く道筋があったんだろうか
彼らが「そのままの生き方」で生きていける世界はあったんだろうか
なんてことをエンドロール中ずっと考えてしまいました。
私の解釈はともかく、『Born This Way』名曲ですし最後までテンション高く観させてくれるとても良い主題歌だと思います。
『ザ・ファブル』各キャラクターもアクションもコメディ部分もシビアな部分も最高に面白い作品だと思うので、ぜひ多くの方に見ていただきたいです。
今日と明日 変わることと変わらないこと
4月30日。「平成」最後の一日もあとわずか。
明日から新元号「令和」ですね。
テレビは平成の総まとめのような番組が目白押し。
新元号が発表されて以来、日本全国が不思議なそわそわとわくわく感に包まれているような気がします。
私自身は所用も有りあまり上記のような番組は見られていないのですが、昭和から平成へ変わった頃のことを思い返せば、おめでたい気持ちで改元を迎えられるというのは良いことだなあと思います。
元号が変わるからといって何が変わるわけでもないという方もおられるでしょうし、実際変わらないことの方が多いでしょう。
元号という日本独自の暦に否定的な意見も見たことがあります。
まあ、確かに不便な点も多いですものね。平成に変わった頃にも西暦だけに統一した方がいいのでは、なんて話題をテレビで見た記憶があります。
でも、元号という独自の暦があることで西暦とはまた違う形で時代の歩みを振り返れたり、先日SNSで話題になった「平成最後の昭和の日の大正駅で明治のR-1を飲む」なんて遊び心も生まれたりするわけですから、悪いことばかりでもないのではないかと思います。
今日も明日も同じといえば同じ一日で、違うといえば昨日と今日だって違う一日です。
日本以外の国ではただの平日、それもその通り。
逆に外国ではとても大切に思われている記念日も、日本ではただの平日だったりします。
明日を新たな時代の幕開けとして気持ちを新たにすることも、昨日今日と変わらない一日として過ごすことも、どちらであっても良いのではないかなあと個人的には思っています。
ただ、自分と違う考えを否定するのでさえなければ。
誰かにとっての大事な日・忘れられない日が、他の誰かにとっては何でもない日であるというのは当たり前のことです。
今日や明日を特別な日だと感じていらっしゃる方も、特別でもなんでもない日だと感じていらっしゃる方も、それぞれがそれぞれ「らしく」、お互いを尊重できる日であれば良いなあと思います。
改元に際して何をしたわけでもありませんが、こんな風に考えることができる機会があったということは、今日や明日は私にとってもある意味特別な一日と言えるかもしれません。
左利きの恨み言 (で終わらせてはもったいない)
2月10日は0210(レフト)の語呂合わせで左利きグッズの日だそうです。
このブログやツイッターに書いたこともありますが、私は左利きです。
右利きの人向けに作られた様々な道具や、「左利きは不便だから」という理由で右手を使わせようとする大人達(子どもの頃の話ですよ・・・)にそれはそれは嫌な思いをしてきました。
最近は昔のように右手を使うよう強制("矯正"は右手=正しいと言われているようで何となく嫌なのです)されることも少なくなっているようですが、左利きには不便な道具・設備が数多くある状況は依然続いています。
しかし実際のところ、右利きの方からすればどのような場面でどういう不便が生じているのかなんて想像もつかないのではないでしょうか。
例えば先日、家族と話している際に「横口レードル(先の細くなったお玉のこと)は左利きの敵」だと口にしました。
すると右利きの家族はきょとんとして「え、何で?」と聞いてくるのです。
「あれは右利きの人向けに作られていて、左手だと注ぎにくいんだよ」と説明しても
「右と左でそんなに使い勝手違うの?逆の手で持つだけでしょう?」なんて言うわけです。
また別の日、こちらは職場での話。
ある作業で油性マジックを使って文字を書く必要がありました。
できるだけ大きく目立つように、との指示に対し「油性マジックの極太字は左手では太い線が書きづらいので太字を使いますね」と答えたところ
「え?何で?書けるでしょう?あれに右手とか左手とか関係あるの?」と。
それぞれ目の前で左手で使って見せれば納得してもらえるのですが、当たり前に何の不自由も無く右手で使っている人からすれば、どの道具の何が不便なのか、なんて想像することすら難しいわけです。
人類の約90%が右利きと聞きます。こんなにも不便に気付かれていないのでは左利きでも不自由しない世界なんてそうそう来ないんだろうな~・・・なんて思ってしまいました。
なんて愚痴はさておき、翻って私自身はどうか。
普段の生活の中で何気なく使っているもの、設備、生活環境の中で
「他の人からすればこれは不便かもしれない」と教えてもらうことなく気付けるものが一体いくつあるのか。
左利きに不便な世界を嘆きつつ、自分とは異なる部分での不便を感じている人にどれだけ共感できているというのか。
正直、何も気付けていないし共感できていないと思います。
牛乳パックの切り込みやシャンプーボトルの横の凹凸など、これがユニバーサルデザインですよと教えてもらって初めて「ああ、確かに」と。
他人にはぐちぐち文句が言えてもこんなものです。
でも、「気付けない自分に気付けた」のは左利きのおかげかもしれません。
実感できない不便に気付くというのは大変難しいものです。
そして誰かが気付いてくれたことによって当たり前に享受できている便利に気付くのも難しいことです。
上に上げたレードルは決して左利きの人間に苦痛を味わわせるために生まれたわけじゃありません。右利きの人にとってはとても便利な道具です。
そして気付かれにくかった不便を指摘してくれた人がいたおかげで、最近では左右どちらの手でも注ぎやすい両口のレードルも少しずつ(本当に少しずつですが!)増えてきています。
当たり前のように思っていた便利さと不便さに気付けること、そこから改良を加えより多くの人が便利に快適に日常生活を送れるようになること。
左利きグッズの日の本当の意味はそこにあるのかもしれないな、なんて考えたりしています。
どこかで誰かが、私が気付かない感じない不便や不快を訴えているときに
「別に私は不便(不快)じゃないし」「そんなの自分でなんとかすれば」と思うのではなく
「どうやったら不便が解消できるかな」「できるだけ多くの人が快適に過ごせるようになるには何ができるかな」と考えられる人になりたいし、ならなければいけないなと
いい年をして今更に考えます。
本日2月10日
私にとっての誰かにとっての、便利なものや不便なものに1つでも気付ける日にできたらいいなと思います。
1年
ブログとツイッターを始めて今日でちょうど1年になりました。
普段からネットに慣れ親しみ、SNSも情報収集のために検索で覗いてみることはあったものの、まさか自分が始めることになるとは思ってもみませんでした。
何故SNSをやり始めたのか、は最初の方の記事に書いてあるので省力するとして
1年間続けてみての感想は「思っていたよりも楽しく過ごせて良かったなあ」です。
ブログよりもツイッターを利用することが多くなりましたが、どちらにしてもできるだけ楽しかったことや嬉しかったこと普段考えていることを、普通に穏やかに記してみようと努めてきました。
そしてどなたかのお名前や作品名などを出す際にはファンの方から見て嫌な気持ちにならないようにしようということだけは心がけてきたつもりです。
その結果・・・なのかどうかは分かりませんが、1年間不快な思いをすることもなく、楽しく活用することができました。
また拙い文章の並ぶこのブログの読者になってくださった方、フォローバックしないことを宣言しているようなものなのにツイッターアカウントをフォローしてくださった方、リツイートやいいね、リプライ・DMで反応くださった方もいらっしゃいました。
どれもとても嬉しいものでした。こんな場所ですが改めてお礼申し上げます。
ありがとうございます。
秋からは木村大作さんのフォローのためにインスタグラムも始めました。
こちらはあまり岡田さんやV6に関係無く写真を載せていますが、言葉中心のSNSとはまた異なる繋がりができていくようで、これまた楽しく使わせてもらっています。
本当にありがたいことに、優しい、温かい反応に包まれてSNSって思っていたよりもずっと楽しいものだったなと感じられた1年間。
しかしながら自分の裏というか本質が露呈しやすいコンテンツだなと感じたこともまた事実。
自分の呟きやブログ記事を読み返して、見栄っ張りな部分、卑しい部分、卑屈な部分、自意識過剰な部分などがにじみ出ているなあと感じてしまうこともしばしばあります。
過剰に自分を飾り立てたり嘘を書いたりはしていないつもりですが、気軽なコンテンツである分、発信する言葉には一層責任を持たなければならないなと考えています。
(『来る』観賞後だと尚更・・・あれは自分かもしれないのだと思いながら観ていました)
日常が嬉しいこと楽しいことばかりで進まないのは当然で
腹が立つこと、悲しいこと、不安なこと、日々さまざまな気持ちを抱えながら私は生きています。
しかしできるだけ嬉しかったことや良かったことを書こうと考えてみるだけで、ほんの少し世界が明るく楽しく見られるようになった気もします。
この1年で書いておきたい自分の気持ちはある程度書けたように思いますが、これからも少しでも日常を明るく楽しく見られるように、これからもマイペースで続けていけたら良いなと思っています。
そしてもちろん、岡田さん、V6の皆さんの応援もマイペースに楽しく続けていきたいと思います。
「ファン」という言葉だけでひとくくりに感情や反応を決めつけられたくないなあという気持ちが私の中には少なからずあるのですが
何かのきっかけでこのブログやツイッターを見てくださった方が「楽しそうだな」と少しでも思ってくださったら嬉しいです。
そして「○○ファンってこうなんだ」「○○ファンはこう考えているんだ」ではなく、「楽しそうな人、つらい思いをしている人、日々を懸命に頑張っている人、そのそれぞれの中に○○ファンの人がいるかもしれないんだな」と思っていただければ、とてもありがたいなあ・・・なんて思ったりしています。
と、まあ、今後もこんな感じで纏まらないままぐだぐだと語ったりすると思います。
気が向いたときに見ていただければ幸いです。
1年間楽しかったです。ありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
敬称と距離感
普段私は岡田さんのことを「岡田くん」と呼びます。
V6のメンバーについても大体くん付け(井ノ原さんはたまにイノッチ)、その他の芸能人著名人の呼び方は、さん付けくん付けちゃん付け呼び捨てさまざまです。
しかしブログとツイッターを始めたとき、敬称はさん付けで統一しようと決めました。
理由としてはまず最初の記事を書く際に「この内容にくん付けは何となく合わないな」と思ったから
そして「自分の文章を見返したときに敬称が統一されていないのが気持ち悪い」と思ったからです。
上に書いたように普段は色々な呼び方をしますし、他の方が敬称をどうされていても文句があるわけではありません。
意図的に貶めるつもりがないのであれば、岡田さんでも岡田くんでも准ちゃんでもジュンピーでも呼び方は自由だと思います。
「さん付けはむしろ親しみを込めた呼び方、さん付けよりも敬称無しの方が敬意を込めている」という意見を見たこともあります。
完全同意はできませんが、何となく分かる気もします。
豊臣秀吉より太閤さん、西郷隆盛より西郷さんの方が親しみがわきますものね(・・・そういうことでしょ?)
ただ私は私自身の書く言葉について、呼び捨て=敬意を込めている ようには表現するスキルはないので最低限の礼儀というつもりで「お名前を書く時は全員さん付け」と決めました。
とは言え、歴史上の人物や架空の人物、海外のスターさんなどを呼ぶ際にはつい呼び捨てにしてしまうのですが・・・まあそれはそれとして。
不思議なもので岡田さんのことを「岡田さん」と書き続けることで思考も「岡田さん」と呼ぶようになります。
人と話すときもふと「岡田さん」と呼んだりします。
そして「岡田さん」と呼ぶことで、私の中での岡田さんへの気持ちの距離感が少し変わったように感じています。
何というのか、今になってようやくちゃんと「一人の独立した成人男性」だとちゃんと認識できてきたように思うのです。
今までだって身内のように思っていたわけでも子ども扱いしていたつもりもないのですが
やはり「岡田くん」より「岡田さん」の方が適切に距離を置けているような、そんな気がするのです。
こう書くと気持ちが離れてしまったかのようですが、決してそうではなく
自分の無理のない温度と距離感で岡田さんを応援することがようやくできるようになってきた気分です。
岡田さんが充実していると嬉しいなあ、活躍して欲しいなあ、幸せだといいなあという気持ちと
岡田さんの何もかもを把握しようとしたり知った気になる必要は無いんだよなあ、だって私と岡田さんは全く違う場所に生きる他人同士なんだから、という気持ちのバランスが
今、とてもちょうどいいです。
あまり深く考えず決めた自分ルールが岡田さんを応援する気持ちの手助けをしてくれているようで
去年の私GJ!と思いながら(笑)今日もほどよい距離感で岡田さんを応援しています。
おめでとう ありがとう
11月1日
V6デビュー23周年の記念日ですね。
こんな風にデビュー記念日をお祝いするなんて、それもこんなにも長い間祝福することができるようになるなんて、初めてV6を知ったときには思いもしませんでした。
高いクオリティで歌って踊る現役アイドルグループであるということは、並大抵の努力ではなし得ないことだと思います。
個々それぞれ全く違った魅力を持ちながら、6人揃ったときだけに見られる「V6」という1個の生命体のようなきらめきにいつも引きつけられます。
ソロの歌声を初めて聴いたのは坂本さん。家族揃って「この人めちゃくちゃ上手いなー!!」と叫んだ記憶があります(笑)
初めてソロインタビューをじっくり読んだのは長野さん。アイドルというものへ見方を変えてくれました。
実は最初に顔を覚えていたのは井ノ原さん。6人の写真を見たとき「あ、『ツインズ教師』の坊主の子がいる!」と(笑)ある意味V6のアイコンと言っても過言ではないのかもしれません。
「V6の人だ」という認識で最初に演技を見たのは森田さん。『毛利元就』の松寿丸でした。可愛かったなあ・・・後に登場した幸鶴丸と好対照で今でも強く印象に残っています。
最初?というのとはちょっと違うけど6人をちゃんと知ったとき「この子すごく可愛いな!」と思ったのが三宅さん。当時と今と全然変わらない・・・ようで実は色々凄く変わっているんですよね。これから40代を迎え更にどう変わっていくのか楽しみなような怖いような(笑)
そして一番最初に「この人好きだな」と思わせてくれた岡田さん。あなたがいなければV6に興味を持つことも、ひいてはジャニーズ、アイドルというものに好感を持つことさえ無かったでしょう。あなたを知ることができて本当に良かった。
私がファンだと公言しているからかどうか分かりませんが、周囲にもV6に好感を持っている人が多いです。
デビュー当時は「コートで踊るな!歌なんていらないから早く試合をやれ!」なんて文句を言っていた家族が、今では「V6はみんないい年の取り方をしてるよね。格好いいよね」と言ってくれたりします。
職場でもファンであることを明かしている相手から「この前○○出てたね」とか「今度○○やるんだね」と声をかけてもらうことがたびたびあります。
私自身は決して出来のいいファンではありませんが、「好きだ」「応援したい」という気持ちが気持ちよく温かく周りに伝わっていればいいなあと思います。
(少なくとも「あいつがファンやってるようなグループなんてろくなもんじゃない」と思われないようにしたい・・・)
とにかく、デビュー記念日おめでとうございます。
今日という日を一ファンとしてお祝いできる喜びを与えてくれてありがとうございます。
これからも6人に幸多からんことを。そしてますますのご活躍を願っております。
大好きだ!!
私が追いかけているのはいつだって過去のあなた
私が目にしている岡田さんは常に過去の岡田さんなんだよなあと時々考えます。
映画にしてもドラマにしてもTV・ラジオや雑誌のインタビューにしても、私の目に入るのは早くても数日~数年前のものであることがほとんどです。
リアルタイムで(生放送だったり、ライブや舞台だったり)でその姿を見ていたとしても、その裏でどんなお仕事をしているのか、どんな話が進行中なのかなんて知ることはできません。
いつも過去しか見られないという点では、少しばかり長く岡田さんのことを知っている私も、今この瞬間岡田さんファンになったという人も同じなのかもしれません。
少しばかり長く知っているせいで過去に囚われすぎることがあります。
比較的最近の岡田さんのインタビューや連載を見聞きして「前はそんな風に言ってなかったのに」「昔はこうだったのに」と思ってしまったりします。
人間なのだから、時間が経過すれば変化するのは当然のことなのに、ただ昔(のほんの一部)を知っているというだけで全てを知ったかのような気になって、自分の記憶と異なる部分を否定しようとしてしまったりする。
傲慢だなあ、と我ながら思います。
もし自分が「学生時代こんな風に言ってたよね」「10年前はこうしてたのに今は違うの?」なんて言われたらどう思うか。
そんな簡単なことが、相手が有名人であるというだけで、自分がファンであるというだけで慮れなくなる。情けない話です。
岡田さんについて変わらないのは「岡田准一である」ということだけで、他はどこがどれだけ変わってもおかしくない。
それが私にとって受け入れられるものであるかどうかは私の勝手で、いつだって彼の過去を追いかけることしかできない私に、岡田さんの変化をどうこう言える権利なんて無いんだと思います。
(と言うより例えリアルタイムで全てを知っている相手であっても他者の変化を非難する権利なんて無いのですが)
岡田さんの新情報が入ってくるたび、新しい言葉を見せて聞かせてもらうたびに
「もうこの言葉は過去のもので、既に岡田さんは私の知らない未来に向かっているんだなあ」と感じます。
過去しか見えていないと考えると少し寂しく感じることもありますが、いつも私の知らない岡田さんが未来にいると思うと、それはそれでちょっとワクワクもします。
岡田さんはどんな今を生きてどんな未来にいるのか。それを知れる日が来るのが楽しみで仕方ありません。