チョコパイの苦い記憶

あれは私が小学校低学年の頃のこと。

どういう理由でだか分からないが体育館で元校長先生だったか公民館の館長さんだったか、とにかくそんな肩書きの「ちょっと偉いおじちゃん」のお話を聞く機会があった。

内容はほとんど覚えていないのだが、一つだけ記憶に残っているのは

「皆さんには弟や妹はいるでしょうか。もしいらっしゃるなら彼らがおやつを食べているときに「それひと口ちょうだい」と聞いてみてください。

1~2歳の子ならおそらく嫌だと言ってひと口もくれないでしょう。

3歳を過ぎれば、嫌々ながら分けてくれるかもしれません。

もう少し大きくなればひと口だけでなくもっと多く分けてくれることでしょう。

成長するにつれてそのように分け合う心が育っていくのです」

というようなお話だった。

我が家は兄弟が多く、おやつはきっちり平等配分か早い者勝ちの奪い合い、年下も年上も関係無しという環境であり、食いしん坊の私はおじちゃんのお話を聞いても

「んなわけあるかい、誰が自分のおやつを分けたりするものか」

と思っていたし、そもそも弟妹にそのような話を振る機会があるとも思っていなかった。(もし口にすれば上の兄弟から人のおやつを取るな卑しい意地汚いと罵られただろうから)

 

しかしさして時を置かずその機会は訪れた。

これまたどういう理由でだか忘れたが、家に私と年の離れた弟が二人留守番で残されたのである(本当は大人もいたかもしれないが記憶に無い)

そして私達にはチョコパイがおやつとして用意されていた。

好機である。

あのよく知らないけど偉い人らしいおじちゃんのお話が本当か試してみる絶好のチャンスである。

弟は当時2歳か3歳。おじちゃんによると絶対におやつを分けてくれないか嫌々ひと口くれるかという年齢であった。

単純な私は絶対に断られるであろうと確信して弟に問いかけた。

「ねえねえそのチョコパイひと口ちょうだい?」

弟は満面の笑みで応えた。

 

「うん、いいよ!残り全部あげる!」

 

ん?

 

弟の手には小さくひと口囓っただけのチョコパイが残されている。

それを彼は「残り全部あげる」と言い切ったのだ。

私は焦った。

幼い弟に「学校で聞いたおじちゃんの話を試しただけだ」と言っても理解はしてもらえないだろう。

何よりおやつはチョコパイである。

板チョコ一枚を数人で分け合い小袋スナックもパーティー開けで奪い合っていた当時の私達兄弟にとって、個別包装されたチョコパイなんて最高級最上級レベルおやつである。

これを幼い弟から取り上げるわけにはいかない。

当然、私は断りを入れた。

「いや、全部はいらないよー。ひと口でいいんだよ(ひと口は食べるんかい)」

「ううん、僕もうこれだけ食べたからあとお姉ちゃん食べて!」

「じゃあ半分こしよう!半分でいいから」

「ううん残り全部あげる」

「いや、姉ちゃんも食べたから本当にいいよ・・・」

「いいの!食べて食べてー」

弟は引かなかった。

満面の笑顔で私にチョコパイを差し出してくるのである。

 

このとき私がもう少し年が上ならば、もう少し知恵のある子どもならば

何とか上手いこと弟を言いくるめておやつの残りを食べさせることもできただろう。

「お姉ちゃんその気持ちだけで十分お腹いっぱいだわこれはあなたがお食べなさい」と返すこともできただろうし

泣かせる覚悟で「いや食べかけなんてホンマはいらんわ」と突き返す手もあったかもしれない。

しかし私はまだ幼く、愚かで、そして食いしん坊な子であった。

何たってチョコパイである。

このままでは弟は決して残りのチョコパイを口にしてはくれないだろう。

あのチョコパイを食べずに残す?捨てる?そんな愚行を犯せるはずがあろうか。

だってチョコパイである。

 

私は結局弟のチョコパイを食べた。

ひと口かじられただけのほぼ丸々1個を食べた。

弟はチョコパイを頬張る私を見てにこにこと笑顔を絶やさなかった。

私は罪悪感に駆られながら、どんなに偉い人であっても大人の話も当てにならないものだあのおじちゃんめとひどい責任転嫁をしていた。

 

時は過ぎ

弟が5~6歳の頃、また同じような機会が巡ってきた。

家に私と弟の二人きり。目の前にはおやつ。

この日は煎餅だった。

私は過去の過ちをずっと引きずっていた。

引きずってはいたがだからと言って弟に自分のおやつを分け与えるという考えも浮かばない、相変わらずの愚かで卑しい子どもだった。

そして再び訪れた機会に、私は再び試した。

「ねえねえ、それひと口ちょうだい?」

「は?何で?嫌」

躊躇うそぶりすら見せずにこりともせず、弟は冷たく言い放った。

幼い頃からおやつ争奪戦の厳しさに晒されてきた彼の目に、かつてのような無垢な輝きは無くなっていた。

しかし私はその言葉に満足した。

これで良かった。断ってくれて良かった。

やはりあのおじちゃんの説は間違っていた。

大人のいうことなんて簡単に信じちゃいけないもんなんだ。

自分の愚かさと卑しさを再び名も知らぬおじちゃんになすりつけ、私の苦い記憶は少しだけ浄化されたのであった。

 

あれからずいぶんと時は経ち、私も弟もおばさんおじさんと呼ばれていい年頃となった。

大人になった彼にこの話をすると、当然覚えてはいなかったが

「つまり僕は純粋で可愛い子どもだったってことだな!」と

ちっとも可愛くない笑顔で納得していた。

その時も私達の前にはチョコパイがあった。

 

もうおやつの奪い合いをすることは無くなり、チョコパイだろうが煎餅だろうが買おうと思えば自由に買えるくらいには大人になった。

あれから姉弟お互い迷惑をかけつかけられつ、べったりではないが仲も悪くなく成長してこられた。

 

しかし今も、スーパーのお菓子売り場を通るとき

私の心には幼い弟の笑顔とひと口囓られたチョコパイが浮かぶのである。

家族の誰かが買ったおやつを戸棚で見つけたとき

あの日の苦い記憶が鮮明によみがえるのである。

この世にチョコパイがある限り、この記憶は生涯消えないのかもしれない。

だがこの記憶を塗りつぶすためにチョコパイに消えて欲しいとも思わない。

だってチョコパイ美味しいから。

心の中の小さな棘を思い返しながら、また私はおやつにチョコパイを買うのだろう。

そしていつかまた弟とチョコパイを食べよう。